Yoshihiko Morotomi

諸富祥彦 動画ブログ

偶然をチャンスに変える生き方 幸運体質に自分を変える

2020年4月25日26日「自分」創造ワークショップ 偶然をチャンスに変える生き方 幸運体質に自分を変える
諸富祥彦 動画ブログ

「ほんとうの人生」「真実の人生」を生きるために大切なこと(4)

「ほんとうの人生」「真実の人生」を生きるために大切なこと(4) テキスト版「ほんとうの人生」「真実の人生」を生きるために大切な6つのことはこちらから
諸富祥彦 動画ブログ

「ほんとうの人生」「真実の人生」を生きるために大切なこと(3)

「ほんとうの人生」「真実の人生」を生きるために大切なこと(3) テキスト版「ほんとうの人生」「真実の人生」を生きるために大切な6つのことはこちらから
諸富祥彦 動画ブログ

「ほんとうの人生」「真実の人生」を生きるために大切なこと(2)

「ほんとうの人生」「真実の人生」を生きるために大切なこと(2) テキスト版「ほんとうの人生」「真実の人生」を生きるために大切な6つのことはこちらから
諸富祥彦 動画ブログ

「ほんとうの人生」「真実の人生」を生きるために大切なこと(1)

「ほんとうの人生」「真実の人生」を生きるために大切なこと(1) テキスト版「ほんとうの人生」「真実の人生」を生きるために大切な6つのことはこちらから
諸富祥彦ブログ 「ほんとうの人生」「真実の人生」を生きるために

「対話」という概念の持つ大きな可能性について

「対話」という概念は、成功する心理カウンセリング、 学校における授業( 本物のアクティブラーニング)、 精神科医療( オープンダイアローグ)、 企業の生産性の向上、あらゆる場面における生産的な会議などをつなげる大きな可能性を持っている。 カウンセリングも学校の授業も精神科のオープンダイアローグも生産的な会議もつまるところそれが 深まりのある対話たりえているかにかかっているからである。 「対話」は、そうした稀有な可能性を秘めた概念である。 そこで見逃すことができないのは、真の対話における、他者との対話と自己との対話の関係、二者関係や三者関係と自己関係との関係、対話における関係性と孤独の関係、言葉と沈黙の関係、明示的なもの(イクスプリシットなもの)のものと暗黙なもの(インプリシットなもの)の関係など である。 真の対話においては、 対話の深まりとともに、 自己との対話が深まっていく。 自己との対話の深まりこそ、思考の深まりにほかならない。 この自己との対話、思考の深まりにおいてこそ、対話がどこまで深まっていくかの成果が示されうる。自己との対話の深まりにともなって、言葉が...
諸富祥彦 動画ブログ

自分の内側と深くつながって生きる(2)内側から革命

自分の内側と深くつながって生きる(2)内側から革命
諸富祥彦 動画ブログ

自分の内側と深くつながって生きる(1)ほんとうのの自分になる

諸富 祥彦 自分の内側と深くつながって生きる(1)ほんとうのの自分になる
諸富祥彦ブログ 「ほんとうの人生」「真実の人生」を生きるために

「ほんとうの人生」「真実の人生」を生きるために大切な6つのこと

このページを訪れている多くの方もそうかもしれませんが、私はずっと、この世界を生きていること、この世界に対する「違和感」のようなものを抱えながら生きてきました。この世界全体への違和感のようなものです。自分の魂が何か「ふさわしくない世界」に生まれてしまったのではないか。そうした違和感と言ってもいいでしょう。 自分は、「見えない世界から送られてきてこの世界を変容するように仕向けられたスパイ」であるかのように感じることもしばしばありました。 そんな生きづらい思いを抱えながら自己探究していった結果、現時点で、私は、「真実の人生」「ほんとうの人生」を生きていく上でもっとも大切なのは、次の六つのことを繰り返し繰り返し行なっていくことのように思っています。 1 「ほんとうからの直覚」に深くとらわれること 何が何でもそれを手にするのだという強い決意と覚悟。どこかに真実はあるのだ、ほんとうの人生はあるのだ、という強い確信にとらわれていること。私は真実の人生を生きるために最も必要なのはこの強い直覚に深くとらわれていること、そのためにならば、すべてを捧げてもかまわないという決意と覚悟をしている...
諸富祥彦ブログ 「ほんとうの人生」「真実の人生」を生きるために

いのちが私している

大いなるいのちの働き 生命エネルギーの渦 それがたまたま、この時この「私」という形をとっている いのちが私している むこうでは鳥という形 むこうでは花という形 そしてこちらでは石ころという形 たまたまこの時、この世界では、「この私」という形をとっている この大いなるいのちの働きこそ、私の真の姿であったのだ 私の本体であったのだ そうした気づきが生まれる時、 私というのは、いのちの働きが、たまたまにはこの時この場所でとっている一つの形にすぎないということに気づいた時、自分とは何者であるか、ということについての大きな立脚点の変更が生じる いのちの働きこそ私なのだ いのちが私している 私はいのちの働きを ただこの世界からの呼びかけに応じて、十分に表現していけば良いのだ
タイトルとURLをコピーしました