本を書くとき、
ひとりになって自分の内側に入っていく。
そこで、文字にされたがっているものを探していく。

けれども、それは、
自分が言いたいことを感じとるためでは、ない。自分が言いたいことを文字にしているのでは、ない。

自分の内側にとどまって、
世界が呼びかけてきているものを感じとる。
世界が何を語りたがっているかを感じとる。

何が語られる必要があるのか。それを感じとって、言葉にする。
語られる必要があるのにまだ語られていないものをつかんで言葉にする。

うまくものが書けているとき、
私は一つの器官になる。

世界がみずからを語り表現する、その器官になる。

私をとおして、世界はみずからを語り、表現する。

私は、一つの器官であり、道具である。

私は、一つの器官であり、道具であるにすぎない。

ものがよく書けているとき、私は消え、世界がみずからを表現する器官となり、道具となる。

魂を文字に刻む。
というより、
魂が私をとおして、文字として刻まれていく。

セラピィがうまくできているときにも、同じ実感がある。