つねに「少数派の視点」から、徹底的にものごとを見る。寄り添う。守る。 ――カウンセリングを学んだ教師や企業人は、どこが違うかーー

つねに「少数派の視点」から、徹底的にものごとを見る。寄り添う。守る。
――カウンセリングを学んだ教師や企業人は、どこが違うかーー

私はこれまで、カウンセラー(セラピスト)として、個人の悩みを聴く仕事をしてきました。

そして同時に、教育カウンセラー協会や各教育委員会の主催する研修会などを通して、あるいは保育カウンセラーの養成などにもかかわって、「先生方」にカウンセリングのエッセンスを伝える仕事をしてきました。
また産業カウンセラー協会などの研修にもかかわらせていただきました。

しかしそこで学ばれた方が、必ずしも、カウンセラーになるわけではありません。面接室で人の悩みを聴く仕事をされる方もいれば、そうでない方もいます。

そうであっても、カウンセリングの研修を受けることで、多くのことを学ばれると思います。またその方が成長されるだけでなく、学校や園、企業などで、その人にかかわる多くの人にもよい影響をもたらすことでしょう。
では、何が違ってくるのでしょうか。

カウンセリングを学んだ教師、保育士や、企業人と、そうでない人とは、何が違うのでしょうか。
つまり、教育カウンセリング、保育カウンセリング、産業カウンセリングなどの学習で「これだけは、身に着けてもらわないとカウンセリングを学んだことにはならない」という核心となるエッセンスは何でしょうか。
私は、次の5点だろうと思います

  1. つねに少数派(弱者)の視点から、ものごとを見る。寄り添う。守る。
  2. そうした人が、援助希求(help-seeking)できる工夫をする
  3. じゅうぶんに耳を傾ける。傾聴する
  4. 待つだけでなく、こちらから、リレーション(ふれあい)を積極的につくる
  5. 「個」と「集団」の両方の視点を持つ

最近私が危惧するのは、集団を重視し、予防的観点から心理教育などを充実させるという姿勢のなかで(それ自体は価値あることとしても)ともすれば、カウンセリングを学んだ方のなかでさえも、「個」の視点、「少数派の視点」が弱くなってしまいがちであることです。個よりも集団を優先させてしまうと、従来型の規律重視の教育、規律重視の企業経営とかわらなくなってしまいます。

カウンセリングが1980年代から2000年にかけて広まっていった時は「個」を大切にする姿勢が魅力を放っていました。集団優先の日本文化にあって、「個」を大切にするカウンセリングの姿勢はインパクトがありました。そしてその後の20年、つまり2000年から2020年までは、構成的エンカウンターやソーシャルスキル、社会性のプログラムなどを駆使して「集団」を対象にしたカウンセリングが広まっていきました。それは予防や成長支援といった大きな意味があり、私もそれに寄与してきました。

しかしその中で、ともすれば、「つねに少数派(弱者)の側にいる個人の側から、ものごとを徹底的に見る」「寄り添う。守る」というカウンセリングの原点とも言うべき視点が希薄になってしまいがちになることもしばしばあるように思います。

これは、カウンセリングの世界のなかで静かに進行している、大きな喪失であり、危機です。

学校であれば、不登校の子、いじめられている子、LGBTの子、発達や愛着の問題を抱えた子、、、、こうした少数派の視点に徹底的に寄り添う。守る。

企業であれば、メンタル不調の社員の視点に立ち、寄り添う。守る。

たとえ、一見、非効率的であり、時間やエネルギーをよぶんにとられることであっても、こうした「少数派の視点に立つ」「寄り添う。守る」ということができないのであれば、カウンセリングの存在意義はない。いくら技術を学んでも、こうした姿勢を獲得できなければ、カウンセリングを学んだことにならない。
そのことを強調しておきたいと思います。