いじめに道徳の授業は有効か

ネットニュースや新聞記事など、さまざまな報道を見るとメディアの大半は、道徳の授業に対して、批判的である。とりわけ、いじめへの対応として道徳の授業は無意味であるばかりか、有害である、といった論調のものが多い。

そしてそのほとんとすべてが、現在、学校でおこなわれている良質な道徳授業のことを知らず、また調べようともせず、勝手な憶測と印象で断定的にものを語っているもんpばかりである。

まことに、残念である。自分が知らないことについて断定的にものを言うのは控えて、ちゃんと勉強してほしい。ストレートに言って、自分を恥じてほしい。

いじめへの対応として道徳授業が有害無益であるという論の前提には「道徳の授業は、道徳を教え込む時間である」「いじめはいけない、と道徳で教えたところでいじめはなくなりはしない」という考えがある。

そんな修身の真似事のような道徳授業を現場ではおこなっていない。少なくとも優秀な教師ならばおこなっていないはずである。

いじめは、してはいけないと何度教え込んでもいじめはなくならない。反発されてかえって、いじめは増えるかもしれない。

いじめ対応に、道徳の授業は有効か?

私の答えは、もちろん、イエスである。

ただし、良質な道徳の授業がおこなわれている学校や学級でならば。

では良質な道徳授業とは何か。

「主体的」で「対話的」な、という二つの要件が「深く」満たされている授業である。

「自分で考える(自己との対話)」「他者と対話する(他者との対話)」が徹底的におこなわれている道徳授業である。

すぐれた道徳授業では、さまざまな人の視点や立場に立ち、多視点的に、多角的に、ものごとをいろいろな視点や角度から考える、という作業を徹底させる。

自分一人で考える時も、ほかの生徒と対話する時も、思考が深化していくポイントは、どこまで徹底的にさまざまな視点、さまざまな多様な角度から、考えることができるか、ということである。

多数派の視点、少数派の視点、どちらでもない視点、ほかにもさまざまな視点に立ち、その上でものごとを考えていく習慣をつける。しかも、ひとりでのみならず他の生徒や教師との「対話」のなかで、自分では思いもつかなかった新たな立場、新たな視点からも、ものを考えていく。そうした「思考」と「対話」、またそれによる「思考の深化」を習慣づけること。それが、今の道徳の授業の本来の眼目である。

いじめを直接のテーマ(主題)としなくともよい。

主題は、何でもよいのだ。

さまざまなテーマについて、毎週1回、さまざまな道徳問題(いろいろな人の利害や思惑が複合的に絡み合って簡単に答えが出ない問題)について、「多様な視点」「多様な角度」「多様な立場」に立って、ものを考えていく。

そうした「徹底的に多様な視点にたっての、思考と対話の習慣」をつけていくのが、本来の道徳授業の眼目である。

いじめの本質は、同調圧力と排他性である。多くは多数派の同調による少数派の排除である。

しかし、上記のような「徹底的に多様な視点にたっての、思考と対話の習慣」が個人に中に身についていくならば、つまり「どの立場(everyone)に立てる人間」、さらには「そこにはいない人の立場や誰でもない人の立場(nobody)にも立てる人間」になることができるならば、そしてそうした習慣が学級の一人一人の中に育っていくならば、そうした排他的な発想そのものが消える。排他的な発想が、否定され、打ち負かされるのではなく、浮かんでこなくなることで、自然と消えるのである。

そしてそうした「徹底的に多様な視点に立つ」思考と対話が、多くの学級で、多くの学校でおこなわれるようになるならば、そしてそんな授業で育った子どもたちが世に出るようになるならば、社会が変わり、世界が変わる。

日本人の質は、間違いなく、各段と良質になるだろう。

夢目がちなことを言っているように聞こえるかもしれないが、そんなことはない。

道徳に限らない。今、この国の多くの学校でおこなわれている主体的で対話的な授業は、徹底されるならば、そのような良質な社会変革をもたらす可能性を確実に秘めている。道徳の授業も然り、である。

そんな新たな社会をつくっていくためのほんの一歩として、私たち千葉グループ(私が千葉大の助教授だった頃に長期研修生だった土田雄一先生や尾高正浩先生らを中心に発足し20年以上たった今も続いている、徹底的に自由にものを考えていく道徳授業づくり研究会のグループ=千葉以外の方の参加も可能です。埼玉の先生も来られています。希望者は土田先生あてにメールください)の道徳授業プラン、そこで開発された手法である「思考ツール」「対話ツール」が役に立てば、幸いである。