「対話」という概念の持つ大きな可能性について

「対話」という概念は、成功する心理カウンセリング、 学校における授業( 本物のアクティブラーニング)、 精神科医療( オープンダイアローグ)、 企業の生産性の向上、あらゆる場面における生産的な会議などをつなげる大きな可能性を持っている。 カウンセリングも学校の授業も精神科のオープンダイアローグも生産的な会議もつまるところそれが 深まりのある対話たりえているかにかかっているからである。

「対話」は、そうした稀有な可能性を秘めた概念である。

そこで見逃すことができないのは、真の対話における、他者との対話と自己との対話の関係、二者関係や三者関係と自己関係との関係、対話における関係性と孤独の関係、言葉と沈黙の関係、明示的なもの(イクスプリシットなもの)のものと暗黙なもの(インプリシットなもの)の関係など である。

真の対話においては、 対話の深まりとともに、 自己との対話が深まっていく。 自己との対話の深まりこそ、思考の深まりにほかならない。 この自己との対話、思考の深まりにおいてこそ、対話がどこまで深まっていくかの成果が示されうる。自己との対話の深まりにともなって、言葉が消え、 沈黙の時間が支配するようになる。 インプリシットのものに触れる時間が多くなる。 そこから言葉やイメージなどを探し続け、 自己内対話におけるインプリシットなものとの激しい相互作用が生じる。 そしてこの自己内対話におけるインプリシットなものと言葉やイメージ等との激しい相互作用が、 他者との対話につき戻され、 相互共鳴を起こす時、 真に実りのある対話は生まれる。

ロジャーズが1942年のカウンセリングと心理療法におけるハーバートブライアンのケースについて言及し、 訳者友田不二夫が その訳注で持論を展開したこの逆説的な関係。 セラピストとクライエントの関係が深まるにつれて、 クライエントは真の意味で一人に孤独になるのである。 そこには 真に充実した対話においては、満たされた孤独の時間が生じることが示されている。
アレントは、「全ての思考のプロセスは、私が自分に起こるすべてのことについて、自らとともに対話する営みなのです。この沈黙のうちで自らと共にあるという存在のありかたを、私は孤独と呼びたいと思います。ですから孤独とは、一人であるその他の存在様態、とくにもっとも重要な孤立と孤絶とは異なるものです。」という。(アレント「道徳哲学のいくつかの問題」)。思考の深まりを伴う対話においては、孤独が必要なのである。
そしてこうした関係性は、 学校におけるアクティブラーニングが 本物の深い対話になり得ている時にやはり生じているだろうし、 医療におけるオープンダイアローグにおいてもそうした関係性は成り立つであろう。 企業等における生産的な話し合いにおいてもまたしかりである。

対話と思考の関係、自己との対話におけるインプリシットなものとイクスプリシットなものとの相互作用の活性化と、それの他者における自己との対話へと相互共鳴。このあたりのことが問われている。